FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

輪るピングドラム 第2話 感想

第2話。第2話ですが、まだ全然、その正体を明らかにしません。「○○は何なのか」みたいな疑問だらけですね。とりあえず思いつくまま考えてみると、


・ペンギン女王バージョン(便宜的名称)の陽毬は何なのか
 → 陽毬の目の色がペンギン帽子と同じ色に変化し、謎空間にワープしてペンギン的衣装も着る、ペンギン女王みたいな感じになるバージョン。冠葉は「帽子に操られている」と見做していましたが、必ずしもそうとは限らない。もちろん、今のところ、少なくとも必ず「ペンギン帽子を被った時だけ」生存戦略の女王様になるのだけど、逆に言えばそれしか証拠はないとも言えるわけで。たとえば第1話では、昌馬がペンギン帽子を買う前からペンギンたちが昌馬・陽毬のことをマークしていたことから、決して「ペンギン帽子を手にした瞬間に」ペンギンたちと関わる世界に足を踏み入れたわけではないのではと推測されます。

pingu02_001.jpg
とはいえこれ(↑)も、はじめから陽毬(たち)に目を付けていただけという可能性もあるので……いずれにせよ、「偶然買った帽子が偶然アレだった」というオチではないのではないか? とは思えるのです。この帽子を買ったのが違う人・その辺の一般人だったら、果たしてこんなことが起きたのか? といえば、違うんじゃないだろうか。


・ペンギンたちは何なのか
 → 冠葉たち以外には見えない謎のペンギン軍団。この作品の上手いところは、説明台詞で全部説明するんじゃなくて、映像が説明も兼ねているところですね。たとえば、ペンギンが見えないということは言葉で説明されていますが、じゃあペンギンが他人を触ったらどうなのかということは、第2話の痴漢騒ぎのところがそうであるように、映像で説明されている。あの黒っぽい女は、ペンギンが触ったのを昌馬が触ったと勘違いして怒ってくるわけですが、翻せば、ペンギンが触るとその感触が相手にはある、ということです。もちろん、その感触がどの程度はっきりしたものであるのかは謎ですが(また、昌馬のペンギンがあの黒っぽい女を触ったからこそ、女は「昌馬に触られた」と勘違いしたのかもしれないという可能性もある。つまりペンギンと持ち主(ていうか対応している相手)は何らかの認識的接続が為されている可能性)。
またペンギンが物質を触ると物理的にその物質に影響を与えるというのも映像で表されています。鞄を漁っている姿と、それを見て(ペンギンが見えないのだから当然ですが)鞄をきちんと仕舞ってなかったと勘違いする苹果とか。ゴキブリに殺虫剤かけているところとか。いずれも実際に、現実にある物質にペンギンが触って、それが現実にもちゃんと作用しているという証左になっている。また、ゴキブリを殺しているように、ペンギンも(何らかのモノを用いれば)生命を殺せるということも判明している。
あと、ペンギン自体は他人から見えませんが、じゃあペンギンが持っている・身につけているものは他人から見えるのか見えないのかというのも、たとえば第1話で傘を持ったペンギンを親子連れが「傘も含めて」認識できなかった(ペンギンだけ見えなくて傘が見えるなら、あの反応ではなかったはず)こととか、第2話での、ペンギンに括りつけたカメラもまた、何度も人目につく場所に行きながらも誰もつっこまなかったこと、あるいはブラジャーやパンツが宙に浮いてるとか、冒頭の電車でチラシをソリ代わりにして車内を滑っていても誰も気にも留めてないところとかから、ペンギン自身は元より、ペンギンが持っている・身につけている物も他人には認識できないのだろうということが推察されます。またペンギンを抱いている(ペンギンに抱きつかれた)昌馬が痴漢の濡れ衣着せられたことから、ペンギンを持っている人間そのものは他人から見ることができる、ということも。
これら全部、そしてここから先に書くことの大部分もですけど、台詞じゃなくて映像で説明しているってのが本当に素晴らしいなと思う。

pingu02_002.jpgpingu02_003.jpg
謎の存在「pingroup」。EDとかにクレジットされてる、いわゆる製作委員会の「ピングループ」(多分)と同一のものを指してる的な感じっぽいですが、これはどういう風に関係あるのか。ペンギンたちが入っていた宅急便の箱に書かれた文字とマークがその「pingroup」の文字とマーク(ペンギンの顔)でした。SEIYUっぽい建物に「pingu seven」とペンギンマークが表記されてる看板もありましたが、その辺から考えるに、「pingroup」ってのは多分(作中世界に存在する)会社か何かである可能性が高そうです。その会社なり組織なりみたいなのが関わっているのでしょうか。そもそもの、あのペンギン帽子を作ったのもその会社とか?
またペンギンたちは、「宅急便で送られてきた」んですよね。謎の生命体のくせに。謎の生命体が現れるときっていうのは、たいてい謎の登場方法であったり、せめて何らかの偶然的な出会いであったりする場合が多いのですが、なぜかこいつらは宅急便。そういえば帽子との出会いも、謎でも何でもないただ店で買っただけというものでした。しかし、宅急便ということは、必ず、「送ってきた誰かがいる」ということで。じゃあ誰が送ってきたのか。なぜ「送る」という手段を取ったのか。そしてなぜ「pingroup」の箱だったのか。何かしら「pingroup」に関係あるのか、それとも別にそーいうの無いのか。
この辺も全部台詞を使ってないですから、余計分からないのですが、しかし全てが映像だからこそ、余計面白いとも言えます。


・ピングドラムって何なのか
 → わかんね。と、冠葉たちも言っている。しかし女王様マジ強引っスね。姿も形も教えてくれないとは。逆に言うと、姿も形も分かんない・もしくは「無い」からこそ教えていない=教えられない、という可能性もあります。冠葉は「探して取って来いと云うからには、何か形のあるもの……なんだろうよ」と言っていましたが、だからといって「形のあるもの」で確定しているわけではない。そもそもここ、冠葉自身がちょっと言葉濁し気味に言ってましたよね。つまり冠葉自身も「形がある」と信じきれてはいないわけです。だってあの女王なら形ないものを説明もなしに「取って来い」と言ってもおかしくない、と冠葉も(我われも)思うわけで。女王が、荻野目苹果がどういう人なのか説明していなかった――その理由は、単に苹果がどういう人か知らなかった、から、単に説明忘れてたまで、さまざま有り得そうですが――ように、ピングドラムの説明も、何らかの意図を持って、あるいは単に忘れてたとかで、説明していないのかもしれません。つまりよくわかんね。


・きっと何者にもなれないお前たちに告げる
 → 「なんで何者にもなれないって分かるんだよ」「お前たちの「運命のいたる場所」から来たからです」。そう、苹果の日記がなんか未来日記的なものであるように、この女王様も「未来」から来ているのです。……たぶん。それは時間軸的な意味での未来ではない(つまりタイムトラベルやタイムリープ的なものではない)かもしれませんが、少なくとも彼らの運命の至る場所=終着点から来ていることは既に最初に明かされている。だから、なぜ「8時10分の電車の前から三両目」に乗ると荻野目苹果に会えるか、ということが彼女には分かっている。ある意味未来から来ているのだから。しかし「その者がピングドラムを持っている。多分な」というように、なぜかそこは確実には分かっていない。
これはつまり、未来から来ているということを確かなものだと仮定すると、「未来から来ているけど全ては分かっていない」ということです。冠葉や昌馬に関わることとか、あるいは陽毬の主観だとか、とにかく何かしらの「制約上の未来」が分かっている。逆に言うとそれしか分かっていない。だから「多分な」でもあるのでしょう。たとえば、状況証拠的にこの時の苹果がピングドラムを持ってるっぽいけど、本当に持っているかどうかは分からない。だからこその「多分」。

pingu02_004.jpg
pingu02_005.jpg
しかしこの映像の説得力は凄いですね。「きっと何者にもなれない」ということも「8時10分の電車に乗ると苹果に会える」という、根拠が分からない言葉も、全部完全に信じられるくらいの説得力。ぶっちゃけ、この空間での女王陽毬が何を言ってても信じることが出来そう。変身バンク(というのもアレですけど)を含めた、この映像そのものが、説得力そのものを雄弁に語っている。この豪快さと絢爛さが説得力そのものを生み出すのです、っていう感じで。なぜロケットみたいなのがぶわーっといって合体してロボみたいなのになって接続されて開いて女王陽毬が出てくるのかとかどうでもよくなるくらい。いや、どうでもいい。理由も理路もどうでもいい。ただ説得力は凄くある。理由も理路も越えたところに(つまり、それが映像の持つ暴力的なまでの効力)。

あと毎回、この空間では冠葉と昌馬の手足が縛られて、毎回、昌馬がペンギンによってここから落されるというのも、それなりの意味がありそうな気がします。冠葉も昌馬も、自由に動けないように「縛られている」。女王陽毬の言葉に縛られている(縛られることになる)ということか、あるいは自分たちが「陽毬のために」と言っていることが証明しているように、現時点で既に圧倒的なまでに「陽毬に縛られている」事実を反映しているとか? そして女王陽毬に文句を言って落される昌馬。文句を言ってるから落されるのか、あるいは、そうでなく昌馬だから落されるのか?


・荻野目苹果と未来日記
 → あの日記は、未来のことが書いてある日記なのか、書いたことが未来になる日記なのか、それとも、書いてあることを未来にするために苹果が行動しているだけなのか。その辺も明らかにされていません。もしくは、数ある未来の可能性の中の一つがあそこに記されているだけ(だからそれをなぞれば、その未来だけは確実に実現できる)といったシロモノかもしれません。
苹果の行動を見るに、ほっといても勝手に実現されるというより、それに沿って行動している(それを実現するように行動している)ようにも見えます。たとえば、「書いたことが未来になる」という日記なら、ビルの壁面をつたって燕の巣の写真を撮るなんて危険なことをわざわざ書くのが疑問になります。もっと簡単なの・楽なのを書いた方が良いのではないか。いやそれ以前に、写真を撮って徐々に仲良くみたいな迂遠なこと書かないで、もっと率直なことを書いても良いのではないか(それが実現されるのならば)。その方が目的達成には適っている。だからあれは、実現される未来の可能性のひとつか、実現させるために苹果がそう行動しているだけか、のどちらかかと思うのですが……。

あたしは、運命って言葉が好き。だって、「運命の出会い」っていうでしょ。たった一つの出会いが、その後の人生をすっかり変えてしまう。そんな特別な出会いは偶然じゃない。それはきっと、運命。もちろん、人生には幸せな出会いばかりじゃない。嫌なこと、悲しいことだって沢山ある。自分ではどうしようもない、そういう不幸を、運命だって受け入れるのはとても辛いこと。でも、あたしはこう思う。悲しいこと、辛いことにも、きっと意味があるんだって。無駄なことなんて一つもない。だって、あたしは運命を信じているから。



安心して。一人の晩御飯も、あと少しで終わりだよ。だって、これからはず~っとあたしが一緒だもん。多蕗くんに寂しい思いなんて、させない。大丈夫よ。未来はあらかじめ、全てここに書いてあるから。無駄なことなんて一つもないよ。あたしは運命を信じている。



どうもこれらの発言からは掴みきれない感じもあります。起こることは全部運命だみたいに受け入れられるけれど、そもそもの起こることが(日記で)全部(?)分かっている。矛盾とはいわないけど、出来レース的な捻れがある。全ての未来が分かっていたら、偶然の出会いなんてあるわけなくて(それこそ、あの日記に書いてないのならば、彼女は冠葉たちと出会えない(直接的面識を持てない)わけで)。どうにもちょっと掴みきれません。

ちなみに、第1話で言っていたように、冠葉と昌馬は、運命って言葉が嫌い。ここら辺からも、彼らと彼女は対比的な存在になっていったりもするのでしょうか。

あと、これがピングドラムかどうかというのも、女王陽毬の「多分な」発言からすると、確かではない(多分としか言えない)。

pingu02_006.jpg
日記のデザイン。これはOPに、誰かが落して苹果が拾っている(と思われる)絵があるのですが
pingu02_007.jpgpingu02_008.jpg
そのことから、元々苹果のものではなく、苹果が拾ったか手に入れたかしたものではないかとも推測できますし、とりあえず最低限、重要じゃなくて意味も無いものでもなく、それなり(以上)に重要で意味もあるものだと思われます。が、しかし、このデザイン。竜宮城と二匹のリュウグウノツカイと思われるもの。

pingu02_009.jpgpingu02_010.jpg
pingu02_011.jpgpingu02_012.jpg
苹果は海のイメージみたいなものが強く描かれているんですよね。ペンギンたちが(苹果を本屋からランジェリーショップに追跡した時に)持っていた標識もまた、魚とかイカとか海に纏わるものが描かれていましたし。いやそもそもペンギン自体が海の生き物といえて、高倉家にも魚の置物とかあったりするしで、そもそもこの作品自体が「海」と関わっているものでもあるのですが(水族館であったこととかも含めて)。
その辺が、どういう意味を指し示してたりするのか。

また「リンゴ」というのは、たとえば第1話で通りすがりの子供が「リンゴが世界」だと言っていたように(宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』?)、たとえばOPでリンゴを落しているように。この作品において何かしら重要な意味を持つと思われます。そこにおいて名前が「苹果(りんご)」。今ググッてみたら中国語読みが「ピングゥォ」とか出てきて驚いたのですが(別の読み方をすれば「ほぼペンギンと同じ」ということである)、この辺も重要な意味を持っていそうです。


・星
pingu02_014.jpg
pingu02_013.jpg
独白と共に現れる星。第1話は昌馬のそれとともに、第2話は苹果のそれとともに。
特に第2話のこれはトイレの排水口からというのが面白いですね。つまり、ある意味排泄物から星が顕現するということでもある。これはもちろん直接的な意味じゃなくて比喩的な意味で。要するに、何かを自分の中から捨てて、流して、それが「星」になっている、という意味。これは別に肉体的な排泄物(便)じゃなくて精神的な排泄物においても。精神的な排泄物。自分の中にあって要らないもの・必要ないもの・汚いもの・過剰なものが排泄物ですね、それは精神的な面にも勿論あって、たとえば悩みとか苦しみとか、自分の嫌悪しているところとかトラウマとか、そういう精神的な部分での要らないもの・必要ないもの・汚いもの・過剰なものを、精神的な意味での排泄物と喩えることもできる。たとえばこれはそういうものを隠喩しているとしたらどうだろう。自分の中にあって過剰であり自分が切り捨てたものこそが、この「星」を生み出しているのだという意味を為していたとしたら。……とここまで書いて「そもそもこの星って何だ」というのが分からないのであるぇー考える意味ねーや(おわり)。


・列車・鉄道
『銀河鉄道の夜』、あるいは他の宮沢賢治作品(第1話でも第2話でも宮沢賢治の名前が出ていましたね)が、何らかのモチーフや下敷きになっているというのは容易に想像できます。でも自分宮沢賢治さん作品読んでないのでどう影響あるのか分からないです。列車・電車・鉄道・レール・駅というモチーフはいたるところに出てきますよね。生存戦略の空間が「改札をくぐって駅に入る」という形からはじまっている(そして「レールの上を走るロケットみたいなもの」に移っていく)ことも、回想の入りが駅の電光掲示板のような作りであることも(前話を「前車両」と言及しているっぽいところも)、アイキャッチなどもそうだし、OPにもそういうモチーフが沢山あるし、あるいはOPソングはおろか挿入歌もまた、駅とかレールとかいう単語が出てくる。

これらが果たしてどういう意味を持つのか、現時点では分かりませんが、しかしですね、やはりこのアニメが凄いのは、このことも―――そしてここまで書いてきたことも―――そのかなりの部分が、台詞じゃなくて映像で語っているという点です。「わかんないけど面白い」という感想をよく聞く理由は、実はそこにあるのではないだろうか。謎も疑問も、もちろん台詞・言葉も使うけど、しかしそのかなりの部分は、映像で語り映像で提示し映像で露呈し映像で解いているのだ。絵がストーリーや謎を語っていて、絵がストーリーや謎を説明している。だからこそ、わかんなくても付いていける。ある意味直感的でありある意味直観的だ。たとえば色使いが持つ隠喩性などは、説明されなくても既にその映像を見ている以上直感的に直観的に認識している。なにせ映像を見ているのだから。理解はしていなくても、認識はしている。この映像にどういう意味があるのかは説明できなくても、この映像に意味があるというのは確信を持って信じれる。そういう、映像の強度。それがこの作品の一番の強みで、魅力じゃないかな、とか思いました。


スポンサーサイト

トラックバック

http://alicemagic2.blog.fc2.com/tb.php/10-89ff033d

輪るピングドラム「2ND STATION 危険な生存戦略」/ブログのエントリ
輪るピングドラム「2ND STATION 危険な生存戦略」に関するブログのエントリページです。
2011.07.29/12:56

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。