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マクガフィンで輪るピングドラム

『輪るピングドラム』におけるマクガフィン、というのは、実はよくできた多層構造なんじゃないかなぁとかちょっと思いました。ということで、以下。

マクガフィン



まず「マクガフィン」とは何かという話ですが、基本的には「なんでもいい」のです。なんでもいいんだけど、重要なもの。たとえばスパイ映画なんかで、敵対する国のスパイ2人が、重要なモノが入っているアタッシュケースを取り合うストーリーがあったとします。この場合、そのアタッシュケースの中身が「マクガフィン」と呼ばれるもの(に成り得る)。
「重要な」アタッシュケースですが、その中身は、実はなんでもいいわけです。国家機密でも、新兵器でも、金銀財宝でも何でも構わない。”アタッシュケースの中身がスパイたちが争うに足るほど重要である”という前提が維持されるのであれば、その中身は問われない。前提の方が先にあり、その実際の中身は、(このスパイ同士が争うというストーリーにおいては)問われていないわけです。
さらに言うと、アタッシュケースの中身は、実は大事でも何でもない、おもちゃとかお菓子だったとかいうオチでも可能なわけです(もちろん、作中でおもちゃとかお菓子だったというオチを披露してしまったら、おもちゃやお菓子を巡って争うというギャグ作品になってしまう危険性もあるわけですが)。

それが物語を廻す重要な存在でありながら、「それの中身」は問われていない。他のものに置換可能である。それが「マクガフィン」。

ここまで(第5話まで)のところ、『輪るピングドラム』に言葉としてだけ登場する「ピングドラム」というのは、まるで典型的な・古典的なマクガフィンのようです。それが重要であると語られ、それが重要であると前提付けられ、それを巡り物語が廻るのだけど、その中身自体は現時点では問われていない。「ピングドラム」の正体が苹果の持つ日記でも、他の何かでも、そこは現時点ではそれほどクリティカルではない。ピングドラムが重要で、ピングドラムを手に入れるというのが先にあり、だからピングドラムを手に入れる・あるいはそれにかなり近づくまでは、ピングドラムの中身そのものはさほど問題には上がらないのです―――あくまで第5話までの話ですが。

要すると、「内実が問われていないが重要であり、それを巡って話が進むもの」というのが、ざっくばらんに言った所の「マクガフィン」なわけです。

これは別に珍しい話ではありません。「マクガフィン」というのは、あるいはそれに順ずるものは、色んな物語に幾らでも登場します。最近のアニメでいえば『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』の(序盤~中盤における)「めんまのお願い」とか、『Angel Beats!』における「神」の存在などは、マクガフィン的な機能を果たしていたと言えるでしょう。『けいおん!』における「楽器」をマクガフィンのようなものだと言ってる人も確かいました(リンク貼ろうかと思ったけど何処で見たか忘れちゃった)。最後のそれはちょっと色合いが違って、むしろ「マクガフィン=対象a」的な意味が強いかもしれません。

マクガフィンは、精神分析を用いた映画評なんかでは(つか主にジジェクで)「マクガフィン=対象a」みたいにも扱われます。どういうことかというと、あくまで、あくまで簡単に言うと、「幻想を与えやすい」ということです。「マクガフィン」というのは、「内実が問われない」「しかし重要」という性質を持ち合わせた機能であり、だからこそ「対象a」として、そこには勝手な幻想が投影される。それは勝手な幻想でありながら、マクガフィンの性質上そうであるように、「重要なもの」として取り扱われる。その上当事者にとっては、物語の行く末を―――つまり彼ら自身の行く先を導く対象でもあるわけです。
もっとも分かりやすいのが先にも挙げた『Angel Beats!』でして、ゆりっぺは「神を探し出して神に復讐する!」と意気込んでまして、その為に天使と戦ったり学園で暗躍したりしていたわけです。もうみんな覚えてないかもしんないですけど、『AB!』は「神への復讐、その最前線」というキャッチコピーよろしくに、当初「神」にゆりっぺたちが戦いを挑もうとしている、というストーリーの流れでした。神がどんな存在なのか・本当にいるかどうかも分からないのに、「自分の運命を定めた奴が神」であり、そいつが許せないからそいつを探し出す、という目的で行動している。その為にも天使なんかと戦っている。ここにおいて「神」というのは、ゆりっぺにとっては重要で・しかし中身のない存在なわけです。そうだからこそ、「自分の運命を定めた奴が神」であり、「そいつが居るはず(=つまり復讐する対象が居るはず)」という幻想を、その神に投影できていた。
「神」という姿形も見えない・居るか居ないのかすら本当は定かではない(とはいえゆりっぺは「居るものだ」と根拠も無く確信していましたが/そうでなければ対象aになりえませんが)、そのような存在に、「そのもの以上の幻想」を抱く。そういった「対象a=マクガフィン」。いやもしかしたら、構図はむしろ逆で、そういう幻想を抱いたからこそ、それがマクガフィンになったのだと言えるのかもしれません。自分が求める幻想を、何かに付与することにより、それを追い求める、というこの形式は。ちなみに『AB!』に限らず麻枝准さんの話って、よく考えると「対象a=マクガフィン」的なるものが頻出だったりしますね。


さて『輪るピングドラム』においては。
本作のキャラはあまり単純に幻想を抱かない、というか、ぶっちゃけると情報開示が曖昧すぎて何処からどこまでが幻想で何処からどこまでがそうでないのかの区別が付きづらいとかそういう点もあるのですが。てゆうか、言おうと思えば、この作品ってかなりの部分がマクガフィンだとか言えちゃうんじゃね?
たとえば「ピングドラム」に対し、冠葉は「妹を救うために重要で必要なもの」という認識を抱いています=幻想を抱いています。もちろんそれは、ペンギン女王バージョン陽毬がそう言ったからであり、ピングドラム自体がどうこうな力を持っているとまでの幻想を抱いていないかもしれなくて、つまりよく分からなかったりするのですが。ただ、昌馬と冠葉では、犯罪を犯そうと何をやろうとピングドラムを手に入れようとする冠葉と、あくまでそこまでではない昌馬という風に、それぞれがそこ(ピングドラム・ひいては女王陽毬(の言葉))に抱く幻想が異なる、という点が対称的に描かれてはいます。
あるいは陽毬の「ペンギン帽子」という、正体不明で重要そうに描かれてるけど、実は本当に宇宙生命体かもしれないし、けれど実は本当にただの帽子かもしれないという、存在の機能だけなら(作中の彼らにとっては)マクガフィンと同質であるコレに対する態度とか=つまりペンギン帽子に抱く幻想とか。特にこの第5話では明確に描かれてもいたでしょう。「宇宙生命体」という幻想を見て、つまり「宇宙生命体」として、忌避や違和感や不安感を抱く昌馬。あくまでも「陽毬のために」、つまり「陽毬のためである」という幻想の元、必死に取り戻そうとする冠葉。ただの帽子じゃんいらなーいと、何の幻想も抱かず、だから重要でも大事でもなく捨ててしまう苹果。それぞれが、その幻想を投影できる器=マクガフィンに、どのような幻想を投影するか・しないか、というのが描かれていた。

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で、ここまでは別に普通の話でして、他の作品でも普通にあるんですが、実は視聴者という階層において「演出」というものが、「マクガフィン=対象a」的な機能を果たしているんじゃないかなぁとか思いまして。


演出=もう一つのマクガフィン的機能



視聴者にとっての、この作品の演出というのは、実は「マクガフィン=対象a」の式と同じ・あるいは似ているんじゃないかな、とか思うのです。

つまり、「重要」であろうと思われるけれど、「どんな中身なのか分からない」。しかし重要であるということは分かっていて、その重要さは、その中身を、今見えているもの以上のものであると期待させる=そういった幻想を抱かせるアガルマ。


pingu02_005.jpg
makuga002.jpg

この作品の演出(デザインなんかも含んでですけど)は「分からない」ことが多い。
たとえば、なんで生存戦略のイリュージョンが、「あのような作り」なのか分からない。なぜ改札をくぐり、星みたいなところに辿り着いて、ロケットみたいなのがレールの上を走って、ピンクな色使いの空間で、何か記号とかがホログラム的に後に流れていて、白と黒二対のロボットみたいなのが出てきて、それが接続されて、中から女王陽毬と昌馬たち呼ばれた対象者が出てくるのか。”なぜこのような作りであるのか”。これらに意味が無いとは思えない。何故なら現時点では必然性が想定できないが、必然性が無いはずがないような作りであるから。これらに意味がある。”なぜこのような作りであるのか”、その答えは確かにあるはずだろう。つまりこれらの演出も設計も、一つの思想の基に導き出された結実である筈であって、だからこれらの演出も設計も、意味があり理由がある筈である。今見えているもの以上の「なにか」―――その「なにか」を埋めるべく必然性を持った、意味が・理由が、必ずある筈である。

そういったマクガフィン=対象aみたいなものが、本作の演出にはあるのではないでしょうか。

だから、よく耳にする、「『輪るピングドラム』の演出がよく分からない・理解できない」みたいな意見はある意味、正しいのではないだろうか。分からなくていい。分からないところに対象aがある。つまり視聴者における対象aみたいに、この演出、その分からなさ=内実の問われなさ=けれども重要であるというこの構図に、幻想を抱けるということ(いや勿論、決して本当に対象aではないのだけど、アガルマのような幻想を抱ける幕になっているという点においては同じである、似ている、ということで)。
そしてそれは、演出の意義として一つの正当に至っている。つまり、「そのもの以上の何かという幻想」を抱けること、それが対象aであり。そして演出というのは、単にあるがままを描くのではなく、対象を「そのもの以上の何かとして描く」こと、それが演出の一つの正答ではなかっただろうか。

随所に描かれるペンギンのマークとか、目を惹く画面の色使いとか、ペンギンの行動が(たとえば第5話のゴキブリのとこがそうだったように)昌馬たちの心情やら何やらをなぞってるような暗喩しているようなところとか、電車内の思わせぶりな中吊り広告とか、モノローグと共に星が画面内を流れる演出とか、エトセトラエトセトラ……

エピソードが進めば、それらの正体も分かってくるかもしれませんが。現時点では定かなりません。しかし、「分からないけど意味がありそう」=「内実が問われていないけれど重要」という、マクガフィン=対象aのような、この演出の構造こそが、普通に「理解できる演出」よりも、よっぽど大きな効果をもたらすのではないだろうか、とか思うのです。


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